松永貞徳(ていとく)







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『松永貞徳(ていとく)』
松永貞徳は、江戸時代前期の俳人です。
元亀2年(1571年)に京都で生まれたとされています。
松永貞徳の父松永永種は、松永久秀の子かはたまた入江政重の子かといわれる人物でした。松永貞徳の母方は藤原惺窩(せいか)の姉にあたります。藤原惺窩は冷泉為純(ためずみ)の子で、冷泉為純は、戦国時代から安土桃山時代にかけての公卿かつ武将でした。そして歌人でもありました。本姓は子息の藤原惺窩が名乗るように中国式の藤原氏または藤氏でした。冷泉為純の属する家系は下冷泉家といって、子に冷泉為勝、藤原惺窩、冷泉為将らがいたため、官位は従三位の参議にまで昇りつめました。
そんな貴族政治が華やかだった平安貴族らの末裔と武家および戦国大名の混淆した時流に乗った松永貞徳は、当世一の噂の高い連歌師里村紹巴に師事し、連歌を学びました。一方で、細川幽斎や九条稙通から歌学を学んだといいます。
このような知名度もあって、松永貞徳は、二十歳の頃に豊臣秀吉公の右筆となります。しかし、徳川家の世となったため、元和元年(1615年)、俳諧の私塾を持ち、後進の指導職に就いたとされます。子に朱子学者の松永尺五もいます。
松永貞徳は、名を勝熊、別号には保童坊、長頭(ちょうず)丸、延陀(えんだ)丸、逍遊(しょうゆう)軒、明心居士、松友などがあり、さらに晩年五条の翁や花咲の翁とも称したため、家集の名前を『逍遊集』といいます。著作には『新増犬筑波集』などがあります。
松永貞徳としては、俳諧は連歌および和歌への入門レベルと考え、より気軽に参加できるものというスタンスでした。
そのため、松永貞徳は貞門派俳諧の礎を築き、一大派閥を形成、以降の俳諧の流れを作ったということになります。
松永貞徳は承応2年11月15日(1654年1月3日)に亡くなりました。
松永貞徳の作った有名な句に、『霞さへまだらにたつやとらの年』といったジョークのような俳諧や、また『鳳凰も出でよのどけきとりの年』などの大きく構えた句もありました。
門下に松尾芭蕉の師として著名な北村季吟等がいます。


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